
『普通』という言葉についてどのようなイメージをお持ちでしょうか?
「普通の人生」「普通の人」「普通の考え方」「普通の生き方」「普通の行動」etc…
様々な『普通』があると思いますが、同時に思い悩むのが「普通って何なんだ」ということ。
おそらくほとんどすべての人が『普通』というものについて悩んだことがあるのではないでしょうか。
それは自分の行動についてというよりも、誰かに「君は普通じゃない」「普通に考えろ」「普通の生き方をしろ」「普通の幸せで良いんだ」という言葉を何らかの形で受けたからだと思います。
大抵の場合は誰か身近な大人であったり教師であったり、あるいはなんとなく覗いた雑誌やテレビ、ネットや他の人の会話で触れることがあったのではないでしょうか。
確かになんとなく”普通”というものがとても素晴らしいというか、無難で安全で、それが幸せなものなんじゃないかと思うのですがそこを目指せば目指すほど苦しくなっていく。
その原因は『普通』というものをしっかりと認識できていないからかもしれません。
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目次
なぜ普通という言葉に思い悩むの?

なぜほとんどの人が『普通』というある意味普通の言葉にここまで思い悩むことになるのでしょうか。
普通を押し付けられることが多いから
多くの場合、誰かから「普通」であることを押し付けられることから悩むことになるでしょう。
自分の好きなことややりたいこと・思ったことを行動に移したり口に出したりするとすぐに「普通のことをしなさい」「普通に生きなさい」と大バッシングを受けてしまうのです。
その言葉を受けた側からすると、普通というものが何なのかは分からないが自分は悪い・異常だ・おかしいんだと感じるようになります。
自分の行動が異常だと指摘されて傷つけられれば、周りの言う「普通」でないと生きていけない・愛されない・受け入れられないと思うようになります。
そして無理にでも自分を普通という謎の枠組みに押し込めて生きていかなければならないんだ、普通でない自分はダメなんだ、普通に合わせられない自分はもっと頑張らなくてはならないんだと深く悩むことになるのではないでしょうか。
安全そうに聞こえるけど、やりたいことではないから
漠然と「安全そう」「安心そう」「間違いがなそう」というイメージがついていることも『普通』への過剰なまでの崇拝心・絶対的な価値観を加速させてしまっているのではないでしょうか。
そして同時に、安全・安心・平坦そうということと楽しいこと・やりたいこととは全く別のものであることに気づくから苦しくなるのです。
いくら安全そうでもつまらなければ正直言ってやりたくない、面白くないと感じてしまい、やりたくないのになんでやらなくてはならないんだと『普通』という概念に強く反発心を感じるのです。
もし『普通』というものが本当に大好きで欲しいと思うのなら、普通とはなんなのかで悩むことは無いでしょう。
『普通とは何か』ということについて悩む時点で、自分は『普通』というものを心から望んではいないのかもしれないと考えるきっかけになるかもしれません。
普通が存在しないことに気づいていないふりをしているから
誰もが心の中では『普通』というものが幻想であることに気づいていることでしょう。
普通を押し付けて来る人も、普通じゃないと言われている人も、そして自分自身も。
ですが、『普通』というものが存在しないものだとうすうす気づいているにも関わらずあたかも存在していてそこに向かっているふりをしていることに疑問を感じるのです。
『普通』なんてありもしないものを求めることの空虚感に耐えられず悩むようになるのです。
普通とは何なの?

では、世間一般で広く言われている普通というものは一体何なのかを考えていきましょう。
みんなの幻想・理想を集めたもの
おそらく『普通』というものははっきりとした答えは無いものの、なんとなくすべての人が「それもイイよね」と感じるようなものをありとあらゆる方向から集めた集合的な欲望・理想・幻想なのではないでしょうか。
誰からも羨ましがられ、誰からも良しとされ、受け入れられるようなもの。
それが『普通』というものです。
つまり『普通』というものはとんでもなほどに「どれだけわがままなんだ、そんなの無理に決まっているだろう」とも考えられるような理想像なのです。
一人の欲望ではなく、すべての人の理想を包括的に叶えようとすることを「普通の人生」をおくることです。
それが自分の望む・望まないことに関わらず周囲から「なんかイイよね」という評価を得ることが良いこと・悪いことということは判断しかねますが、いわゆる『普通』の人が『普通』の理想像を叶えようとすることは不可能なことだと感じてしまいます。
自分の価値基準を越えたところに『普通』があるので、どうやったら『普通』になれるのか知ることができないからです。
日本中・世界中の普通をかき集めてその平均値をとる生活というのは普通に理想的な生活どころか、とてもゾッとするような自分を押し殺した生活に感じてしまうのは私だけでしょうか。
メディアや誰かが作り上げたフィクション
みんなの共通して持っている幻想であると同時に、テレビや雑誌で見てしまった「理想の〜!」のようなワードがみんなの理想・みんなの普通になってしまい、個人の願望とは無関係にみんなが共通して向かっていくべき未来のようになってしまっているのではないでしょうか。
それぞれ理想像・普通像を分解していけば至極納得できるものですし、素晴らしいものだとも思います。
しかしながらそれを他人に強要したり、ましてや自分自身に掟や鎖のように縛り付けるものではないのではないでしょうか。
普通≠自然
頻繁に言葉にされる普通というものはあくまで誰かが、そして我々が作り出したものであってそれが当たり前のもの、
つまり『自然なもの』ではないことも大事なポイントではないでしょうか。
普通という不自然なものをあたかも自然で当たり前に存在するものとして捉えているからこそそこに向かっていくと行動や考えに矛盾が生じていしまい、『不自然』な気持ちになってしまうのです。
普通を目指すよりも、自然・自然体というものを目指したほうが人間・生き物にとって『普通』の生き方なのではないでしょうか。
人間や環境によって異なるもの
また、自分にとっての普通があると同じようにそれぞれの人や環境によって普通の姿が異なってきます。
自分と親と、友人と上司とも違いますし、世界を見てみると国によっても全く違う普通像というものがあります。
そこを理解せずにみんな同じ『普通』を思い描いて生きていくのは個々人を理解していくのに大きな障害になってしまうのではないでしょうか。
我々はみな違った『普通』の概念を持って生きていることを前提にして生きていくことが、ひいてはお互いに歩み寄ったり理解し合うことにつながっていくでしょう。
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どうやって生きていけば良いの?

では『普通』というものがとても曖昧なものであったとすればどうやって『普通』に生きていけば良いのか、何を目指して生きていけば良いのかを考えてみましょう。
みんなの理想の人物として生きる
先におすすめしない生き方ですが、『普通』といういわば幻想のような言葉をかき集めてその通りに生活してみることです。
例えば安定した収入があり、結婚し、家族がおり、友人とも仲良くし、家を持ち、車を持ち、貯金をしっかりして生きていく、といったことをこなしていくことです。
生き方としてとても素晴らしいことだと思います。
そして皆それぞれが思う『普通』というものは違うと思いますし、ある程度イメージに差異があるとも思います。
大切なのは何が正しいとかではなく、なんとなくみんなが理想としていそうなことをこなして生活していくのがひとつの『普通』の人生の送り方だと思います。
その生き方がピッタリとフィットする人はその生き方が合っているのだと思いますし、
それはそれで幸せで素晴らしいことだと思いますがもしそうでない場合は自分の意思や夢、目標や本音とは違う生き方になってしまうので考えものかもしれません。
自分にとっての普通を再構築する
おすすめする生き方がこちらです。
『普通』というものに疑問を感じているのならば、この際自分の普通・理想と世間の普通・理想を比べてみましょう。
やり方は色々とあると思いますが、自分の判断基準・価値基準をアウトプットしていくことが大切です。
ノートやメモ帳に、自分の好きなこと・大切なこと・普通にやっていること・理想としていることを書き出し、別の場所に世間で言われている、あるいは教えられてきた普通なこと・理想の生活・やらなくてはならないと言われていることを書き出してみます。
それができたら両者を比較してみましょう。
おそらく自分の好きなことや理想と世間が求めている普通さ・理想像というものに差異がある部分もあると思います。
そのうち自分の理想・普通と世間の理想・普通の共通する部分はそのまま受け入れて、どうしても自分の価値基準に合わないものはできる限り自分の好き・理想を優先しましょう。
自分が好きなこと・やりたいこと・理想とすることを『自分にとっての普通』にしてしまうのです。
周囲の価値基準に従いすぎてしまうと普通の生活と言われているものでも苦しさや嫌な気分に苛まれてしまいますし、予想外のことがあったり世間の意見が変わった時にまたその意見に従わなくてはならなくなります。
ですが自分にとっての新たな『普通の基準』を手に入れてしまえれば自分にしかわからない・自分だけがわかる普通というものに則して生きていけば良いわけですし、ちょっとやそっとでは『普通』というものが揺らがなくなり見失うことも少なくなります。
わけの分からない霞のような『幻想の普通』をいつまでも追い求めるのではなく、自分にだけははっきりわかる『普通さ』というものを手に入れてしまえば一気に生活が楽になることでしょう。
そして自分自身、他人に自分の普通像を押し付けすぎないことも大切です。
自分の普通像を大切にしつつ、他人の普通像も尊重する。
そんな生き方がベストではないでしょうか。
まとめ:『普通』でもそうじゃなくても良い

いかがでしたでしょうか。
おそらく『普通』とは一体何なのだろうかと考えたり悩んだり疑問を持ったことのある人のほとんどは『普通』といわれているものははっきりしたものではなく、都合よく使われている幻想のような言葉なんだろうと感じていると思います。
しかしみんなが心の底では幻想で、無理矢理で、「あるわけないだろう普通なんてもの」と考えていてもなかなかそれを主張することもできないような空気感・風潮のようなものは未だにあると感じます。
それはどうしても世代の差であったり、今生まれてきて10年や20年くらいの人と40年50年生きてきた人では体験したものの違い、味わってきた『普通さ』というものの根本的な違いがあったりするのでしょう。
ただ、だからといって周囲が普通と言うものが正しくて『自分の感じる普通さ』が正しくないということも無いと思います。
そもそもここまで話してきたことをまとめると『普通』というものはそれぞれの中に存在していて細部は絶対に違うものですし、頭の中でイメージしている普通が他の人と100%かぶっていることも無いでしょう。
周りの人や親、先生、友人、尊敬する人、上司、同僚、恋人、全員を見渡してみて下さい。
みんなが言っているいわゆる『普通の人』ってどれくらいいるでしょうか?
いないのではないでしょうか。
『普通っぽい人』というものはいたとしても、蓋を開けてみればそれぞれ中身が違って個性的です。
それで良いのではないでしょうか。
みんな『普通』という一方的な理想の押し付けの枠に当てはめられた人だと、ただの量産型のロボットと同じになってしまいます。
つまり、『普通だ』という感想やイメージ・生活はむしろ自分の個性や考え・意思を排したロボットに近づいているようにも思うのです。
そしてこれからは『普通じゃない』という言葉がマイナスな言葉ではなく、自分が自分である証であり、個性を象徴している感想であり、自分自信の意思を持って生きているという誇りともいえる褒め言葉にもなっていくのではないでしょうか。
また決して『普通』であることが良いとか『普通でない』ことが当たり前とかではなく、どちらの生き方・考え方をしても良いというスタンスでいることが大切ではないでしょうか。
普通の理想を叶えることはとてもむずかしいことであると同時にとても貴重なことです。
大切なのは自分にとって何が『普通』で、世間では何が『普通』とされていて、自分は何を信じて生きていくかということなのです。
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