あの人はきっとこう反応してくれるはず。
あの人はきっと喜んでくれるはず。
こうすればきっとうまくいくはず。
言われたとおりにすれば、きっと安定するはず。
私たちは、日常の多くの場面で知らず知らずのうちに『期待』をしています。
もちろんそれは悪いことではなく、自然に思い浮かべてしまうもの、なんとなく頭に浮かんでくるものでもあります。
しかし同時に、この『期待』が大きすぎてこだわりすぎると、いつの間にか「執着」や「コントロール」に変わってきてしまいます。
それは人から人に対する期待でも、親から子へ、子供から親へ、自分から友人や恋人へ、はたまた自分のやっていることの結果に対するものでも、ありとあらゆるものが含まれます。
「私がこうしたのだから、こうならないと許されない」という執念にも近い期待は自分も、周囲も、そして環境そのものも苦しくしてしまいかねないでしょう。
今回はそんな「期待」というものについて、適度の期待の方が良いのではないかという『期待しない・期待しすぎない生き方』について考えていきましょう。
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期待しすぎることが、息苦しさにつながっている

人間関係も、人生も、仕事も、お金も、ありとあらゆることにおいて『期待』というものが大きすぎると息苦しさに繋がっていきます。
私がこうしたのだから、あの人はきっとこうしてくれるはずと「期待」する。
私がこうなのだから、あの人も同じように考えると「期待」する。
私がこれだけ頑張ったのだから、こんな結果が出るはずと「期待」する。
親だから、子供だから、恋人だから、人間だから、大人だから、会社だから、上司だから、親戚だから、こうしてくれると「期待」する。
それらの行為自体は悪いものでもありませんし、ごく自然にしてしまうものでしょう。
しかし、その期待が行き過ぎると「押し付け」「思い込み」「コントロール」になっていき、そこから外れた行動や反応、結果は「悪いこと」「いけないこと」「ダメだ」と裁いてしまいます。
また、他人や周りの環境だけでなく、自分自身に対しても常にジャッジを下してしまい余計に息苦しさ生んでしまうのです。
期待するのも、期待に応えるのも、自由
「期待」そのものは全く悪いものでは無いでしょう。
こうなってほしいな、こうなりたいな、こうなれば良いな、と思うことはイマジネーションそのものですし、想像力そのものなのでしょう。
しかし同時に、それらを押し付けたり執着し始めると話しが変わってきます。
こうなるはずだ、こうしてくれるはずだ、こう言ってくれるはずだ、理解してくれるはずだ、分かってくれるはずだ、こんな人間になってくれるはずだ、といった過度の期待は誰であれ息苦しいものではないでしょうか。
それがどのような人間関係や行動におけるものであってもです。
親だから子供のことを理解してくれるはず、子供だから親の言うことを聞いてくれるはず、恋人だからすべて許してくれるはず、何もかも思い通りになるはず、という期待をするのは自由ですが、同時にされる方も「期待に応えるか・応えてくれるかどうか」についても自由ではないでしょうか。
お互いに期待するのもされるのも、そして期待に応えるかどうかも自由に選んでも良いよ、という考えがあらゆることにおいて息苦しさを少しでも軽くするものではないでしょうか。
期待をしてくる人の期待に応えなくてもよい
期待のしすぎが相手に息苦しさを与えることがあるのと同様に、自分が誰かに期待されたとしてそれに100%応えようとすることも息苦しさを生むことがあります。
特に、親子関係や友人関係、恋人など親密な人間関係においての『期待』は時に恨みや裏切り、執念や呪いのようになってしまうこともあるでしょう。
他人が自分の期待に応えなくても良い、という考えと同時に大切にしておきたいのが「自分も無理をして他人の期待に応えなくても良い」ということです。
それが親であっても、子供であっても、友人であっても、上司であっても、部下であっても、先生であっても、誰であってもです。
期待に応えたくて応えるのは良いのですが、「応えなければ」、「応えなくちゃ」、「応えないとダメなんだ」という強迫観念が辛さに繋がってしまいがちなのです。
お互いがお互いの期待に応えなくてはならない、という「ルール」は本来無いのではないでしょうか。
それがいつの間にか社会常識や普通という言葉にまとめられて、その期待に応えない人・期待に応えられない人を異常だ、問題だ、普通じゃない、と押さえつけようとしていたことがそもそも無理があるのではないでしょうか。
なぜ期待”し過ぎる”ようになるのか

そもそも私たちは、なぜここまでなにかに期待”し過ぎる”ようになるのでしょうか。
こうでなくては、怒られる、嫌われる
一つの要因として、自分の期待通りでないと「誰かに」嫌われる、怒られる、ダメだという強迫観念、思い込み、自責の念が挙げられるでしょう。
そして多くの場合それは、母親、父親などの親が当てはまります。
自分が考えたとおりにならないと親に嫌われる、怒られる、捨てられるという気持ちから多くの物事をコントロールしようとし、期待が膨らんでいきます。
教えられてきたようにしないと、大変なことになる
また、私達が期待し過ぎることの裏側にはたくさんの『恐れ』がついています。
このままいくと、大変なことになる。
相手が思い通りに動いてくれないと、嫌な目に合う。
自分が思った通りの結果にいかないと、人生が終わってしまう。
そのような『恐れ』を避けるためにありとあらゆることをコントロールしようとし、さらには執着し、自分のことも人のことも思い通りに動かそうとしてしまうのです。
教えられてきたこと、言われてきたこと、見てきたこと、それは真実?
期待しすぎることの裏側には様々な恐れがついていることでしょう。
親に捨てられるかもしれないという恐れ、人に裏切られるかもしれないという恐れ、人生が終わってしまうかもしれないという恐れ。
もちろんそれらの恐れは自然な気持ちですし、同時に実際に起こってしまうことかもしれません。
しかし、いつまでその恐れにしがみつかなければならないのでしょうか。
そして、その恐れにしがみつき続けることと、期待し過ぎて執着する気持ちを軽くしていくことと、どちらを望むのでしょうか。
そして、その「こうなるかもしれない」「嫌われているかもしれない」「愛されないかもしれない」「ダメになるかもしれない」というネガティブなメッセージだけを、なぜ真実だと思いこんでしまっているのでしょうか。
少しでも『期待』と『恐れ』を手放していき、身軽になってみませんか?
期待しない生き方とは

自分が他人や物事に対して期待しすぎることが多くの場合息苦しさを生んでしまうことでしょう。
そこで、これから少しでも息苦しさを軽くするための『期待しない・期待しすぎない生き方』をご紹介したいと思います。
期待してもいいし、しなくてもいい
まず一つに、「期待してもいいし、しなくてもいい」ということです。
つまり、絶対に期待してはいけないというワケでもなく、期待をしろというワケでもないのです。
どちらでも良いのです。
期待してはいけない、期待しなくてはいけない、期待しよう、期待したくない、といった考えの一つだけに縛られるとますますこだわってしまうので、どのような状態にあっても良いんだ、と考えておけば良いのです。
また、どのような状態にあっても良いと思えない自分であっても良いし、それすら思えない自分でも良いのです。
ジャッジを止めていくこと、そしてジャッジを止められないことをジャッジしてしまうことをもやめていくこと、そこから『期待しない・期待しすぎない生き方』の糸口が見つかることでしょう。
期待に応えない・応えられない自分を許していく
期待しすぎて苦しいときは往々にして、期待通りにならない物事、他人、そして”自分自身”を責めています。
責めることそのものは仕方のないことですし、責めてしまえば良いのです。
そして何よりも、自分がありとあらゆることにおいて期待に応えられないこと、期待に応えたくないということ、それらを許していくのです。
「期待に応えなくても良い」「期待に応えられなくても良い」「期待に反しても良い」「期待されても良い」「期待に応えても良い」。
期待に対する自分自身の行動の制限を少しづつでも外していってみましょう。
他者が自分の期待に応えられないことも許していく
同様に、期待を押し付けてしまった相手がどういう行動をしようとも、どういう生き方をしても良い、ということを考えてみましょう。
相手は自分の期待に応えなくても良い、大丈夫。
相手に対して制限をかけるような言動を少しづつでも外していくと、それこそが信頼につながっていくこともあります。
もちろん、お互いに傷つけ合うこともあるかもしれません。
でも、私達なら、大丈夫なのです。
あまりにも期待を押し付ける人からは離れても良い
自分が期待を手放していっても、それでもなお自分自身に「こうしてほしい」「こうなって欲しい」「こうするべき」「なぜ言うことを聞かないのか」と期待を押し付けてくる人もいることでしょう。
それらの言動が悪いこととは言いません。
しかしながら、相手が自分に期待を押し付ける自由があるのと同様に、自分自身も行動を選択する自由があります。
あまりにも息苦しくて、コントロールされて、辛いのであれば離れてしまってもよいのです。
憎んで、恨んで、嫌って、怒って、引き離して、そばから去っていっても良いのです。
それが家族や、友人や、恋人や、これまで親しかった人であってもです。
自分が「期待には応えない」「応えられない」と決めて、実際に行動してもそれを受け入れるかは相手次第です。
どうしてもお互いの考えや生き方が合わないのであれば、離れてしまうのも一つの手なのです。
そして、「今は」離れていっても、「いずれ」また会えたらいいか、とぼんやり思っても良いのです。
お互いの関係についてすら、無理やりどうこうしよう、という期待を少しづつ手放していくのです。
こうなったらいいな、こうしたいな、という考えはあっても、私達が生きている世界に『絶対にこうしなくてはならない』ということは無いのです。
期待よりも、自分の行動にフォーカスしてみる
期待しすぎる、というのはつまり、自分の思い通りになって、メリットばかりになって欲しいということです。
どのような物事にも裏表があり、一見自分の思い通りになっていたとしても、その裏側では必ず何かが起きています。
それは、自分や他人の心を蝕んでしまっているということかもしれませんし、強いストレスかもしれませんし、もしかすると病気につながっているかもしれません。
いずれにせよ、期待通りになろうとならなかろうと、私たちは迷惑をかけたり嫌われます。
こうなったらいいな、欲しいな、ということを考えつつも、目の前に在る『今』自分がどうしたいのか、という行動についてフォーカスしてみることも一つの考え方かもしれません。
期待しすぎず、信頼してみる
もしこれまで「思い通りにならない!」「思い通りに動いてくれない!」「思い通りの自分になれない!」とあらゆることを責めたり、批判したり、辛かったりしたのであれば少しづつでも期待を手放し、信頼をしていってみましょう。
信頼するというのは、思い通りになるということを信じるということとは違います。
思い通りになってもならなくても、私たちは大丈夫なんだ、ということを信頼していくのです。
理想通りに、期待通りに、思った通りになってもならなくても、私たちは大丈夫、愛されている、満たされているということを信頼していくのです。
信頼できなくても良いのです。
信頼してみようかなぁ、から始めても良いのです。
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まとめ

期待しない生き方というのは決して、自暴自棄になって、他人を信用せず生きるということでは無いでしょう。
そうではなくてむしろ、自分が起こした行動の結果や、相手の行動、未来などについて「自分でコントロールしようとする」ということを手放していき、これから先どうなっても自分は大丈夫、相手も大丈夫、全ては大丈夫なんだ、という信頼に満ち溢れているのではないでしょうか。
自分が本当にしたいと思ったからやってみた、やめてみた、動いてみた、動かないでみた。
その選択や行動のさなかで傷ついたり、悲しかったり、失敗したり、泣いたり、笑ったり、怒ったりすることでしょう。
それでも、自分自身・他人・世界について「絶対に思い通りにならないといけない」という執着をしながら生きることと、期待を手放し、自分も他人も世界のことも、少しづつでも信頼して生きること、そのどちらを望むのでしょうか。
おそらく自分が思っていたのと違った、理想と異なった、期待はずれな気持ちが自分の中から湧いてくることもあるでしょう。
理想ではきれいな人間だけど、実際は中から怒りが湧いたり、悲しかったり、許せなかったり、離れたかったり、人を笑ってしまったり。
そんな、いつか思い描いていたような、教えられてきたような「期待通りの自分」にはなれないかもしれません。
でも、それでも良いのです。
それが、私達なのです。
自分や他人や世界を『期待』というものの枠に押し込めて、楽しいでしょうか。
本当に、息がしやすいでしょうか。
お互いがお互いに対して、そしていろんな出来事に対して期待を手放していくことで、少しづつでも「期待していたのと違った、とてもつもない素晴らしさ」に気付けるのかもしれません。
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