やりたくないことをやる必要はあるのか、その2つの答え

Hiko
こんにちは、Hikoです。

 

「やりたくないことでも我慢して頑張ることは素晴らしいことです。」

そんなセリフを良く聞いたことはないでしょうか。

 

特に日本では『我慢が美徳』とも言えるような風土・慣習が底にあり、やりたくないことでも頑張って、我慢して、自分を叱咤激励・研鑽して成長していくことが素晴らしいと言われていることが多いように思われます。

 

確かに多少の我慢・努力は経験や知識となって自分のためになる部分もあるでしょう。

しかし昨今の『我慢は美徳』という文化は行き過ぎで、根性論・精神論とも言えるような人を追い詰め、精神的にも肉体的にも痛めつけてしまうようなことが多いのではないでしょうか。

 

「やりたくなくても我慢して働け」「我慢して言うことを聞け」「我慢して努力しろ」。

そんな言葉は一見正しいようにも見えて、その実言われた人も言った人も苦しめているように思えてなりません。

 

我慢してなにかをやり続けるのは、一体何のためなのでしょうか。

お金のため?気に入られるため?将来のため?いつか役に立つかもしれないから?

 

もう一度冷静に、「やりたくないことをやる」ということの本質と、その根性論の危険性について考え直すことで、自分や他人を追い詰めるような生き方・働き方を大きく変化させ人生を軽やかに、楽しいものにするのはいかがでしょうか。

 

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やりたくないことをやらないのは悪いことなのか?

まずはじめに、「やりたくないことをやらない」ということは悪いことなのかについて考えてみましょう。

 

おそらくほとんどの人が心の底で「やりたくないなぁ」「やらなくて済むならなぁ」と思いながらも続けていることが1つや2つはあることでしょう。

ではそれらをやめることができないのはなぜなのでしょうか。

 

過去の経験や教え

私達の多くは過去に「やりたくないことも我慢してしなさい」「ワガママを言うと罰が当たる」「やりたくないことをやらないなんて甘えでありえないこと」と教えられてきたのではないでしょうか。

 

口に出して言われたことがなくとも、親や身近な人から態度でそう示されてきたかもしません。

言うことを聞かなかったりやりたくないことをやめたい言えば「根性なし」「甘えている悪い人間」と言われたかもしれません。

 

過去にそう言われたことがある人は大人になってからも自分の中にその言葉や意識が残り続けて自分のやりたくないことをやめることに『罪悪感』を持つようになることが多いです。

 

もし仮に「やめてもいいよ」と言われても「誰かに嫌われるのではないか」「親に見捨てられるのではないか」「バカにされるのではないか」という意識が強く働いてしまいます。

 

やりたくないことをやらないのは『悪』ではない

結論から言うと、やりたくないことをやらないことというのは『悪いこと』ではありません。

 

そもそも良いこと・悪いことというのは個人個人で勝手に決めてしまっていることであり、すべてのことにおいて善悪をはっきりさせることはできません。

 

それでもなんとなくやりたくないことをやらないことが悪いことのように感じるのは、世間体、一般論、普通に考えて、常識では、親が言っていた、みんながやっているから、そうしないと生きていけないと言われているから、といった『誰かが言ったこと』に反することをすることに『罪悪感』を感じるからです。

 

もし仮に誰も止めたり批判をしなければ行動に移す人も多いかもしれません。

あるいはお金や時間があればやめるのに、と考えているかもしれません。

 

なんとなく「悪い気がする」「批判されそう」「生きていけなさそう」だからやり続けていることがほとんどでしょう。

 

やりたくないことをやめても生きていけるよ、大丈夫だよ、と保証されていれば迷うことも少なくなるのではないでしょうか。

 

やりたくないことをやることが大切な時もある

やりたくないことをやらないでいるということが『悪いこと』ではないとは言え、生きているとやりたくないことでもやらなくてはならないことがあります。

 

厳密にはやりたくないこと・やらなくてはならないことではありませんが、2つ例に挙げてみましょう。

 

日本で生きていく上での最低限のルールなど

本当はゴミ出ししたくない、本当は税金を納めたくない、本当は病院に行きたくないなどやりたくないことがあったとして、実際に行動に移すと犯罪になってしまったり生きていくことができないこともあります。

 

日本で生活しているのであれば日本の法律に則った行動はしないで生きることができないのはどうしようもないことかと感じます。

逆に言えば、法律などで縛られていないような「会社に行きたくない」「休みたい」という願望は悪いことでは無いでしょう。

 

やりたいことをやる上で避けられない怖いこと

やりたくないことでも大切になってくることが、『やりたいことをやる上でリスクになるかもしれないこと』です。

 

やりたいことをやる上で私達の足を踏みとどまらせているものは一体なんなのでしょうか。

特に大きなものは、「罪悪感」や「傷つく恐れ」というものでは無いでしょうか。

 

人に批判されるかもしれない、親に文句を言われるかもしれない、好きな人に嫌われるかもしれない、失敗するかもしれない、ばかにされるかもしれないといった恐れ・リスクは私達が自分の心に従って行動することを踏みとどまらせ、時には『罪悪感』という名の目に見えない鎖で縛ってくるものでもあります。

 

やりたいことをやればいいのに、幸せなのに、といってもなかなか踏み出せないのは罪悪感や失敗することに対する恐れ以外の何者でもないかもしれません。

お金や人間関係、生活に何の支障も無ければやりたいことをやることに躊躇しないという人も多いのでは無いでしょうか。

 

それほどまでにやりたいことに付きまとう「罪悪感」「リスク」「恐れ」というものは大きいものなのです。

 

反対に、このような「罪悪感」「リスク」「恐れ」といった本来は見たくない・味わいたくない、つまりは『やりたいけど怖いからやりたくない』と感じることはとても大切なことになってくると言えます。

 

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「やりたくないことでもやることが大切」の本当の意味

やりたくないことをやらないでいることは悪いことではありませんし、かといってやりたくないことをやり続けることも悪いことではありません。

 

しかし日本には今のところどうしても「やりたくないことでも我慢してやるしかない」「文句を言わずに我慢してやれ」といった文化・風潮が強いようにも感じます。

 

その考え方の上でどんどんがんばれて、どんどん結果が残せて、どんどん楽しくなるような人にはとても良いことなのかもしれませんが、そこまで頑張れない人・そこまで我慢できない人にはとても辛いこととなってしまいます。

 

やりたくないことでもやり続けるのは怖いことでもある

やりたくないことでもやることが大切、あるいはやりたくないようなことでも果敢に挑戦してこなしていくことが好きな人には我慢して頑張って生きていくことは大変向いていますし、とても楽しいことです。

 

しかしやりたくないことをやることに対してとてもストレスを感じたり嫌な気持ちになることが多い人には大変”危うい”生き方かもしれません。

 

やりたくないことをやるということは、自分の生き方・自分の気持ちを尊重せずに自ら心を傷つけるような行為とも取れるからです。

 

やりたくないという気持ちを蔑ろにして頑張り続けた結果、病気になったり怪我をしてしまう人、あるいはストレスが溜まり続け他人を攻撃したり自分を責めて自暴自棄になってしまう人もいます。

 

それはある意味では当然の結果です。

自分の心を自分で痛め続けたことが反動となって表れているのです。

 

やりたくないことでもやるべき、の本当の意味とは

やりたくないことでもやりなさい、我慢してやりなさいというのは決して「自分の気持ちや体を痛めつけなさい」という意味ではないと考え直してみましょう。

 

「やりたくないことでもやる」=「身も心もボロボロになるまでやる」という捉えられ方は大変危険です。

自分自身の心と体を痛めつけるだけでなく、そのストレスが他人にも及んでしまうからです。

 

やりたくないことでもやったほうがいい、と言うのは「やりたくないこと」=「やって傷つくのが怖いくてやりたくないけど、本心ではやりたいこと」「誰かに批判されるかもしれないからやっていないこと」という認識が心を軽くするかもしれません。

 

例えば飲み会に行きたくないのであれば「やりたくないことでもやる」=「飲み会に参加しなくて批判されるのは嫌だけど参加しない」であって、「我慢してまで飲み会に参加すること」では無いのです。

 

私達が本当にやりたくないことというのは「行動そのもの」ではなく、『行動によって他人から批判を受けること』『他人から嫌われること』『失敗やリスク』が嫌なのです。

 

他の人から色々言われたり失敗したり傷ついてしまうよりも、嫌なことでも我慢してやっている方がマシだと考えているので「やりたくないことも我慢してやる」という選択に走っているのです。

 

やりたくないことでもやるかやらないかは、自分次第

やりたくないことでもやるべき、という考えに正しいも間違っているもありません。

 

やりたくないことをやることが楽しくて、成長できて、意味があると感じる人にはとても素晴らしいものでしょう。

しかし、それは他人に強制したり押し付けたりするものではありません。

 

やりたくないことをやりたいと思えばやれば良いし、やりたくないと思えばやらなくても良いのです。

 

少なくとも、自分の心に従わずに自分を痛めつけるような行為と薄々自覚しながらも「仕方がない」と考えてやり続けるのはおすすめしません。

 

やりたくないことをやる必要はあるのか、その2つの答え

やりたくないことでもやる必要はあるのか、ということに対して2つの答えがあると感じます。

 

「絶対」必要なものではない

絶対にやる必要があるものではないでしょう。

やってみた結果「やりたくないな」「やめたいな」と思うことがあっても、初めから「やりたくない」と思っていることにあえて飛び込まなくてはならないわけでは無いでしょう。

 

経験・知識・好奇心があって、「やりたくないことをやる」ということの感覚を知るきっかけとしては意味のあることかもしれません。

 

しかしながら、他人が強制するものではありません。

一方で、やりたくないことをやらないという考えも他人に押し付けられるものでもありません。

 

それぞれ、どちらも自分に合った生き方をすれば良いのです。

どちらが正解ではなく、「どちらが良いか」なのです。

 

”やりたくないということにしていること”はやってみても良いかも

やりたくないことはやらない、ということを盾にとって「自分の本当にやりたいこと」から逃れているのであればそれはそれでオススメしません。

 

「本当は好きな人に告白したい」「本当は好きなことをしてみたい」と考えているにもかかわらず、「傷ついたり失敗することが怖いから、やりたくない」と言うのは「やりたくないことはやらない」ということとは違うのです。

 

本当は仕事を断りたいけど怒られるかもしれないからやりたくない、というのは自分の気持ちを尊重しているとは言い難いのです。

 

一番初めの「本当はどうしたいのか」ということを大切にすることこそが、自分の気持ちを大切にすることと言えるでしょう。

 

傷つくのが怖いから”やりたくないということにしていること”は、やってみても良いのではないか、というのが2つ目の答えです。

 

まとめ

以上、長々となってしまいましたが2つの考えがあるのではないでしょうか。

 

やりたくないことは、

1.絶対にやらなくてはならないわけではない、それぞれの考えを尊重して、自分に合った考えで行動しても良い

2.「本当はやりたいけど、傷ついたり失敗することを恐れて”やりたくないということにしている”」ことはやってみる価値があるのではないか

 

ということです。

 

世界には「絶対に正しい意見」「正しい考え」はありません。

それぞれが自分に合った考え・スタイルを採用していくものです。

 

その中で、どうしてもやりたくないこと、やりたいけど傷つくことを恐れて”やりたくないことにしていること”というものを見極めていって、その気持ちに従って行動することがそれぞれの人生にとって大切なことでは無いのでしょうか。

 

 

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1 個のコメント

  • 世界には絶対に正しい意見はあります。簡単な事は誰でも見つけられます。これは石だ。日本人にとって石は石です。絶対です。だけど英語だとstoneです。日本人が聞けばストーンです。石は絶対に石ですが、英語圏の人と交わればそれだけでは通じません。でも日本人にとっては石は石です。絶対に。だから絶対は存在します。そしてこの世の真理は弱肉強食です。これも絶対です。全てに言える事です。共通です。しかし人の世で弱肉強食は社会が成り立ちません。だからこそ人の世では弱肉強食という絶対は絶対ではないのです。人の世には人の世の真理というものが在ります。これも絶対です。誰が考えても同じ答えに辿り付くようになっています。絶対はありえるし、また同時に絶対はありえない、また曖昧でも良い場合も在る、これが答えです。

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