
普段生活していて、社会で『常識』として一般的なルールのようなものがあって、それを念頭に置いて生活しているとなんだか窮屈だなぁと感じることはありませんか?
そこで今回は、自分や他人を縛っているかもしれない『常識』について考えていきたいと思います。
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目次
常識って何なの?
そもそも常識とは一体何を指すものなのでしょうか。
改めて考えてみると目に見えない曖昧なもののような気がしますが、幾つかに分類されると思います。
知識という分野
まず、知識としての『常識』です。
これは一般的に知られている情報などのことを指していて、1+1=2である、イチローは野球選手である、など。
一般常識と言われるものですが、これは果たして本当に『常識』なのでしょうか。
算数や数学を学んでいなかったりスポーツを全く知らない人からすればもしかしたらこれらはいわゆるところの『常識』ではないかもしれません。
振る舞い方や生き方での考え方
生活においての『常識』もあるのではないでしょうか。
たとえば「大人になったら結婚をする」「友達とは仲良くしましょう」「みんな立派な人間にならなくてはならない」というようなもの。
本来どこにもそんな規定はありませんが、子供から大人になるにつれてありとあらゆる『常識』のようなものが詰め込まれていきます。
それらは決して悪いものでは無いかもしれませんが、必ずそうなではならないというルールが無いにも関わらず『常識』という形で我々を縛ってきます。
思い込みの『常識』
このように、『常識』とされるものの多くは「目に見えないけどたぶんそうなんだろう」「そうすることが当たり前なんだろう」といった不確実な曖昧なものばかりなのではないでしょうか。
また、『常識』というものは流動的に変化するものだと思います。
100年前の『常識』は果たして今の『常識』と同じものでしょうか。
かつては着物を着ていたり徒歩が『常識』だったかもしれませんが、今では洋服を着て車に乗って、というような生活が『常識』のように”考えられて”います。
『常識』の良い面と悪い面は?

『常識』には良い面と悪い面が存在しているのではないでしょうか。
良い面は?
最低限の知識を共有できる
まず良い面の一つとして『情報の共有』がスムーズに行えることだと思います。
「日本の総理大臣は〜だ。」ということが『常識』として共有されていれば会話でその情報について一から説明することもなくなります。
簡単な情報が『常識』として設定されていれば、意見交換などで役にたつ側面が大きいのではないでしょうか。
無法地帯にならない
また、マナーや生活態度が『常識』として広まっていれば犯罪や迷惑行為を防げる効果もあると思います。
最低限の『常識』があるので人がお互いに不用意に傷つけ合うのを避けているのではないでしょうか。
悪い面は?
常識に縛られすぎてしまう
『常識』の悪い面として挙げられると思うのが、自分自身を『常識』というものでがんじがらめに縛ってしまい自分の可能性をも奪ってしまうかもしれないことです。
目に見えない『常識』の範疇でしか行動ができなくなってしまい、そこから外れることが意識的にしろ無意識的にしろできなくなってしまいます。
そのため、時代や環境の変化によって自分の中の『常識』の基準を変えざるを得なくなってもそうすることができず、結果的に行き詰まってしまうのではないでしょうか。
他人に『常識』を求めてしまう
自分の中の『常識』が他人と完全に一致していることは無いのではないでしょうか。
にも関わらず、『常識』で自分を縛っているために他人も同じように自分の基準で縛ろうとしてしまいます。
そこでいわゆる「価値観の相違」というものを認められず、必要以上の衝突や争いが起こってしまうように思えます。
『常識』をどう捉えたらいいの?

では、一体『常識』というものをどのような形で捉えることがベストと考えられるのでしょうか。
変化するもの
まず、『常識』というものは絶えず変化し続けているものとして捉えるのが良いのではないでしょうか。
それは社会全体としても個人の中のものでもです。
つまり、当たり前の形や一定の形にこだわり続けるのではなく常に変化しているのだと考えることができれば、他人も自分も『常識』というものに閉じ込めず生活できるのではないでしょうか。
それぞれに違うもの
また、『常識』というものが個人個人で流動的なものであるのと同時に、個人個人で全く違った基準で『常識』を持っていると考えることが大切なのではないでしょうか。
お互いに共有していないことを前提につながることができれば、相手を自分や世間の価値観を通した目で見ることも減るのではないかと思います。
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『常識』を打ち崩すには

では、一体どのようにすれば自分の中の凝り固まった『常識』を打ち崩すことができるのでしょうか。
違う環境に身を置く
一つは、自分が置かれている環境を変えてみることです。
それは旅行に行って違う文化に触れてみることでも、違うコミュニティの中(習い事など)に飛び込んでみることでも良いでしょう。
違う環境に入ってみれば自分が今まで思っていた『常識』が実は自分や一部の人の中でのものに過ぎず、他の環境ではまた違った『常識』が存在していることを知ることができます。
人と話す
今まで関わったことのなかった人たちと話してみるのも一つの手でしょう。
自分と生活スタイルや仕事の異なる人の中には、自分が知っていた人たちの中での『常識』とは違うものが存在したりします。
全く違った価値観を持った人の『常識』を知ることで、自分ももっと多様で自由な考え方を持っても良いんだと知るきっかけになるのではないでしょうか。
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『常識』を疑う
また、自分の中の『常識』を疑ってみることも大切なのではないでしょうか。
今まで当たり前のように決めていた自分の中のルールが自分や他人を苦しめているとすれば、一度「当たり前」にやっていることやルールを見直す必要があるのかもしれません。
上でも述べたように、『常識』というものは流動的なものだと思います。
昔は良かった考え方でも時代や環境で変えざるを得なかったりするのなら、自分の中の『常識』を変えられるようにしていく意識が必要なのではないでしょうか。
『常識』に大して客観的になる
そして最も大切なことなのかもしれないのが、世間や自分の中にある『常識』に対して出来る限り客観的であることではないでしょうか。
『常識』や『価値観』といった目に見えないものが存在していて、それらはあくまでも社会の中や自分の中にある考え方のひとつに過ぎず、いつでも変わったり変えることが可能なものだと考えます。
そうすることができれば自分のことを自分で無理に縛ったり、社会の目に見えないルールに縛られたり、あるいは他人を縛りすぎることを避けることができるのではないでしょうか。
また、あくまでも『常識』を打ち崩すことを目的に生きるのではなく打ち崩した先に何を求めるのかを考えていけばより自由な発想を得ることができるように思います(*^^*)
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まとめ
『常識』というものは詰まるところ、確実に目に見えたり存在が定められているものではないのではないでしょうか。
あくまで自分や他人、社会が”なんとなく”決めてしまったルールのようなもので、そこに無理に型にはめられてしまったり型にはめてしまう必要はないように感じます。
特に『常識』が自分を苦しめているのだとすればその『常識』は本末転倒だと思うのです。
たとえば「幸せになること」「立派になること」という『常識』的な目標が”なんとなく”決められているように感じるのですが、それらは果たして必要な『常識』なのでしょうか。
「幸せになること」「立派になること」が『常識』的な目標だとすれば、それらの『常識』は今現在の私達が「幸せではない」「立派ではない」と決めつけているようなものだと感じるのです。
つまり、今わたしたちは「幸せではない」という『常識』が根付いてしまっているように思うのです。
そんな気持ちや『常識』の中で生活していれば、自然と暗い気持ちや将来に悲観的になってしまうと感じます。
「幸せになること」や「立派になること」は『常識的な目標』なのかもしれませんが、あくまでそれは価値観の一つに過ぎず、むしろ「自分は幸せかも」という意識や『常識』を持つことができればもっと自由に、気楽に生活できるのではないでしょうか(*^_^*)
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